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2006年05月04日 演技全般
果て無き道
一昨年の夏だっけか、
ミュージカルで1954年の14歳を演じた時、
俺は台本には書かれていない「教育勅語」を勉強したり、
旧字体で自分の仮想の日記を書いたりして、
「自分が演じる役」と「自分自身」を混ぜ合わせる作業を行った。
簡単に言えば、「役作り」だ。
同じように、今回「とある映像作品」に出演するにあたって、
俺は結構な量の「台本外」リサーチをした。
限られた時間内ではあったけど
「本当は体験していない自分の歴史」
を自分の物にする事が出来たように思う。
まぁ、その代償として身体がおかしくなったけど・・・
さて、この2回の「役作り」を通じ、
俺は自分なりの役作りの方法を見つけ出せた・・・ような気がする。
その方法をここに記しておきたい。
~~~~
「上手い演技をしたい」
役者なら誰でもそう思う。
でも「上手い演技」って何だろう・・・?
役者の中での「上手い演技」という価値観は
時間と共にどんどん変わる。
ここに今から書く
「現時点での自分の中での上手い演技」も、
数年後には古臭い物になってしまうだろう。
・・・でも、一応書いておこうと思う。
もしかしたら誰かの助けになるかもしれんし、ならんかもしれんし・・・
~~~~
いつの頃からか、自分の中で
「リアルな演技をしたい」
という願望が強くなった。
ここでいう「リアルな演技」とは、
「演じてるように見えない演技」の事だ。
理想としては、
「リアルすぎて、役者が演じている事にすら気付かない」
状態の事を指す。
・・・この「理想の演技」を獲得にするには、一体どうしたらいいのか?
まず俺がしたのは、「演技」を捨てる事だった。
・・・そうか。役者が「演技」しようとするから「演技」であるとバレるんだ!
分かりやすく言うと、こういう事だ。
・・・例えば、「タフな男」を演じるとしよう。
「軟弱な男」が頑張って「タフな男」を演じた場合、
そこに現れるのは・・・
「タフな男を頑張って演じる 軟弱な男」 だ。
・・・さて、それは本当の意味での「タフな男」だろうか? ・・・違うはずだ。
もしかしたら観客の反応は
「頑張ってる」「上手くタフな男を演じてる」
かもしれない。
・・・だが、それは役者が演じてる事に気付いた上で、
「客席」という安全な場所から見ているゆえに出るコメントだ。
そしてそれは俺の目指している物ではない!
では、ここで「軟弱な男」はどうすべきか。
・・・簡単な事だ。
彼は役作りの期間を利用して「タフ」になればいいんだ。
精神的に、肉体的に、1分1秒を惜しんで「タフ」になればいい。
そして「最大限にタフになった状態」で舞台に立てばいい。
あとは「タフ」を無理に演じようとせず、
その状況に身を委ねるんだ。
・・・そうすると、観客からはどう見えるだろうか?
「頑張ってる」「上手くタフな男を演じてる」
このようなコメントが出るはずがない!
なぜなら、目の前にいるのは以前の
「タフを頑張って演じる軟弱な男」
ではないからだ。
そこにいるのは・・・ 「タフな男」 ただそれだけだ。
~~~~
タフな男は「どうして」タフなんだろう・・・?
俺はこの疑問にこそ役者の持つ「選択の余地」があると思っている。
「タフな男」は「タフに見せようとしている男」とは違う。
「タフな男」はそれまでの人生経験によって「タフな男」になったわけで、
オギャーと産まれた瞬間からタフな男は・・・たぶん居ない。
・幼い頃から大人の汚い部分を見て育ったから?
・スポーツで精神・肉体共に鍛えたから?
・大事な人を守るため?
色々な選択が可能だし、その選択によって
100人居たら100人とも全く違う「タフな男」になるはずだ。
・・・では、ここで「タフな男」を「日本兵」に置き換えてみよう。
そして同じ質問をしてみる。
日本兵は「どうして」日本兵なんだろう・・・?
その質問に果たしてどう答えるだろうか?
俺が「もし」日本兵を演じるとすれば、
1分1秒を惜しんでその日本兵になろうとするだろう。
彼がどのような人生を歩んできたのか、
想像力を最大限に発揮して再体験するだろう。
当然それは軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)や軍歌、
果ては歩兵須知集(ほへいすちしゅう)にまで及ぶはずだ。
「限られた時間の中で最大限に役と自分を混ぜ合わせる。」
それが俺の現時点での演技法だ。
出来立てホヤホヤの演技法なので、
自分でも上手いやり方が分からない。
もう少しスマートに出来れば良かったんだけどなぁ・・・